第4回 心豊かに生きる集い

子育て

講師:稲生 隆信
主催:社団法人 人間性復活運動金沢支所
日時:平成17年7月10日
場所:石川県女性センター

挨拶も出来ない中学生

私の子育て体験を話した後で、皆さん方と話し合ってみたいと思います。

 私は当年五十八歳、日本で一番人口の多い年代の生まれで、そろそろ同年輩は定年という歳です。大学在学中に京都で家庭教師をしていたことがあります、その時、非常に衝撃的な出会いがありました。中学二年の男の子の家庭教師にということで、最初にお母さんが来られて「家の子をよろしくお願いします」と言われ、見るからに上品な方でしたので、ここの子供なら問題ないと思いお受けしました。

そもそも、出会いが変わっていたのです。その当時は簡単な造りのアパートに住んでいたのですが、初対面の時、入り口に近い二畳の部屋に座って待っていると、彼は挨拶をしている私の目の前を、挨拶もせずに通り抜けて、六畳の小さな机の前にチョコンと座った。それが昭和四十五年のことです、私も寺生まれで寺育ちのものですから、挨拶もなしに通りすぎたのがショックでした。誰が廊下を歩いても足音が聞こえるのに、その子だけは廊下を歩いていても足音が聞こえないほど、全く元気のない、自信のない男の子でした。

 そうして勉強を教えることになって、また驚きました。理数系でしたが、中学二年の春休みというのに、中学一年のことを教えても何も解らない。それで段々と小学校六年、五年と下げたのですが、本当に解らない様子なので「こんなことくらい、解らないのか」と言ったら目の前で泣き出してしまい、これには参りました。

好きな科目は何?

 おだてたり、褒めたりしながら、教えるうちに気付いたのは、この子は頭の良い男の子でありながら、男の子になっていないんだなと思いました。家からグローブを送ってもらってキャッチボールを始めたが、全く捕球する気がありません。見ていると腹が立ってくる程です。しばらくして「君は、好きな科目はあるのか」と聞いたら「ある」というので「何だ」と聞いたら、「英語」だと言うのでシメタと思った。今では小学校でも英語は習っているが、三十五年前はそうではなかった。だから「ヤッタ」と思いました。

 この子の父親は銀行マンで、当時のサラリーマンとしてはリッチなほうでしたので、ソノシート(レコード盤)を買ってもらえと言いました。イギリス人か、アメリカ人かわからないが、教科書どおりに吹き込んであるものを、好きなものですから勉強するわけです。聞いたとおりに勉強し、発音するから私よりよほど彼のほうが上手い。「それだけ上手いのだから、意味が解るだろう」というと、一所懸命意味を調べてくるので、逆に教えてもらうようにした。教えさせるようにしたら私の勝ちでした。先生より、僕のほうが解るというふうになる。「そこまで英語が解るのに、どうして数学が解らないの」と言った。そうすれば頑張りますよね。そうして、段々と変わってきた。

男になること

 九科目ある中で一番好きな科目と嫌いな科目、この二つが伸びて行けば勉強の仕方が全て解る。これは人生においても非常に大切なことなので、私はサンドイッチ方法と名付けました。今まで学校に必ずというほど遅刻していたのが、遅刻しなくなった。しばらくしてからその子の家を訪問して「お母さん、見せたくないでしょうけれども、私は地元の人間でないし、他言しないことを堅く約束するから、通知簿を見せて下さい」と頼んで見せてもらいました。今まで殆ど一か二の評価が、一学期教えただけで二が残ったのが体育だけで、他は全部三以上になっていました。それが職員室で評判になった。その時、彼が男になったなあと思いました。

 夏休みに所要で電車に乗ったとき、偶然にその子と乗り合わせた。友達が嫌いで、いないと言っていたのに、友達と楽しそうにお喋りしながら、私にもちゃんと挨拶をしてくれました。勉強だけでなく、人生に自信を持って行動しているのを見て大変嬉しく思いました。 この子が何故自信のない子になったのか。お父さんは昔の銀行マンでしたから、一日中仕事仕事。日曜にはゴルフ、マージャンの付き合いが大事。家庭のことはかまっていなかった。男の子の第二成長期に父親と接する時間がなかった。そうすると、男の子はくさってしまう。そのような経験から、自分が子供を育てることになったときには、男の子を育てるのは俺の役目だと、強く思いました。

子どもの目で見てあげることが大事

富山に帰って結婚し、女の子が産まれて、次に男の子が産まれました。娘の名前は、妻が娘の誕生前に神秘的な夢を見ているのです、その夢に因んで、産まれる前から決めておりました。この娘が母親の傍から一時も離れることがなくて、妻は台所に立つときでも片手に抱っこしてやっていました。

幼稚園に行く事になり、迎えのバスに乗せるのですが、二十分以上泣き続けて行くのです。私が檀家へお参りに行く途中ですれ違う時があるのですが、我が子の泣いているのが可愛そうで恨めしくなったことがあります。しかし、副園長が娘を非常に可愛がって下さったお陰で乗り越えることができました。ところが、私も保育園に通っていた時に、よく泣いたことを聞きますし、覚えてもいます。子供の到らないところが見えたら、自分の当時を思い出してみると、あまり気にならなくなるものです。近所や周囲の子供さんを見ても、檀家の親たちの嘆きを聞いていても、親と同じことをやっていると思うことが多いものです。親の目で見ずに、子供の目で見てあげることが大事ではないかと思います。

叱ることと、怒鳴ること

息子のときは、私も坊さんでありますので息子も坊さんになって行くだろうという気持ちも含め、名前は生涯付いてまわるものだけに真剣に祈り、願いを持って名付けました。この子は問題もなく順調に成長し、小学校四年生のとき友達に誘われて野球部に入りました。六年生でキャプテンを決める事になったときに、うちの子が選ばれました。そこまでは問題もなく、喜んでやっていたのですが、ある日突然「僕、野球部を辞める」と私に打ち明けられたときには弱りました。原因を探ってみますと、監督の厳しさに問題がありました。この監督は、地域の人がボランティアでやって下さっていた。その監督は、叱る専門で誉める事は一言も言ってくれない。何か失敗したときには、徹底的に叱られる。そんな時、試合した相手チームの監督は、対照的に「よく頑張った」と、手を叩いて一緒になって喜んで誉めていた。これを見てから一層嫌だという気持ちが増して行ったようです。誉めるときはしっかり誉めて、貶すときにはしっかり注意する。これが出来ないと人の心は掌握できません。 ここで野球部を辞めると、挫折癖がつくかもしれない。と同時に息子がやっているから僕達も野球をやろうと言って入ってきた子供達に動揺が走ってしまう。これは困ったことになると思った。

父親が勇気を示す事が出来るか出来ないか、子どもはしっかり見ている

この監督は、私と同じ小学校の一年先輩で、私がかつてPTA会長をしていた時に協力してくれた事もあり、親しくしていた間柄ですので「今の子供達に、叱ってばかりでは伸びる訳がない。三つ誉めて一つ叱る位で丁度良い」と言ったのですが、なかなか変わらない。そのうちに、他の親達からも不満が出てきた。そして、皆で集会を開く事になりましたが、監督を前にして口を開く者はなく、私が話すことにした。「監督の気持ちは解るけど、貴方が怒鳴ってばかりいたのでは、子供達が萎縮してしまう。動く手も動かなくなる。上手に誉めてやらないと成長しない。バットを振って当らなかった事を責めるのではなく、振った事を誉めてやれば良い。それ位のことを言って下さいよ」と話した。その事を知った息子が、それだけの事を皆の前でよく言ってくれたということで、安心したんですね。 男の子は、父親が勇気を示す事が出来るか出来ないか、確りと見ています。

その後、息子は何事も無かったかのように、皆で力を合わせて、それなりの成績を上げながら危機を乗り越えた。男の子の場合は、父親と気持ちを一つに出来るか出来ないか、これが一つのポイントであると思います。特に小学校の高学年、いわゆる第二成長期に入ると、こういう経験をしながら、男の子として成長して行くのです。この自覚が出来る時に、男としての父親がカバーしてやる、援護してやる、サポートしてやる。これが出来るか出来ないかが、最も大きな問題だと思う。

男の子と、女の子の違い

女の子が中学生の時にイジメに遭った。本人にも幾分原因があったのでしょうが、周りから寄ってたかって言葉の暴力、嫌がらせ、妬みのようなものもあった。私等夫婦に話したのはかなり後になってからで、先生にも相談しましたが、具体的に対処が出来なかった。幸いなことに、うちの子は剣道部に入っていたので、幾分ストレスが溜まっていても竹刀を振りながら、大声をあげているとストレスが消滅して行くので良かった。

冬になり、自転車登校が出来ない時は車で送り迎えをしました。、道中話し掛けてくれば話をしますが、こちらからは話はしなかった。しかし、腹の底には「お父さんは、お前の為なら命を掛ける」という気概を持っている。それが通じたかどうか分からないが、それから段々と耐える力、忍耐力がついてきて、乗り越えることが出来た。娘は私とあまり話すことはありませんが、妻とはじっくりと話しあっています。これは男の子とは違います。

誰にでも反抗期があると思いますが、うちの男の子に反抗期を見受けなかったのは、その時期に私とよくキャッチボールをやっていた。男の子の場合は母親(動物的に言えばメス)から離れて、男であることを意識し始める。自分が男であるという自覚を持って、男である父親に付こうとする。その時期に、父親が男の子と一緒にスポーツ、研究活動、その他色々と遊んでやることが大事だと思います。それ位の器がないと、男の子は成長しない例を幾つか見ながら、そのように思う訳です。

親子の思い出作り

私の妻は東京から来たのですが、小学校三年の時に父親は病気で亡くなり、その後母親と二人暮らしでした。私達が結婚して三年位で富山へ移り住み、二人の子を可愛がってもらいました。私も年中無休で、子供の休みの時はかえって忙しく、子供と接する日を作ることを工夫し、夏休みの八月二十七日から三十日あたりを皆で休みにして、義母と一緒に家族で旅行することを毎年続けました。目的は、子供達と交流を持つこと、何時までも残る思い出を共有する事と同時に、義母に感謝があったからです。

私の父は、四国の徳島からの婿入りですが、私が産まれて弟が産まれる少し前に、結核で四国に帰って五年間療養生活をしています。従って、幼年期は父親の顔を知らずに育っていますが、三、四歳の頃に父の背中に負ぶさって、朝日を見ていた記憶が残っております。 親子の思い出は、後になって作ることは出来ません。中学生や高校生くらいになりますと、親と一緒に行動しなくなるので、小さいときに少々無理をしてでも、親と一緒に経験を共有したことを作っておく事です。親は、俺を可愛がってくれた、私を可愛がってくれたと思ってくれることが大切です。

娘が西宮の大学に行っていた時は、毎晩のように妻に電話をして来た。男の子は少々何があっても心配はいらないが、女の子は感情にまかせると心配なことを起こす可能性もあるので、毎晩の電話は良い事だと思って傍で見ていた。娘が卒業して横浜の小学校の教師として就職が決まり、同時に男の子が大学に入学ということで、横浜で共同生活をしようということになり、大学も横浜に決めたので、私も安心だった。

昨年、子供達の所を訪ねた時、帰りに駅で手を振って見送ってくれる二人の姿を見て、私の子育ては終わったと思った。

子育ての責任は、父親が基本

子ども達は、何事につけ母親に相談しています。妻が困った時は妻が私に相談します。問題が起きた時に、父親が出るくらいで良いのではないか。子育ての主権を握るのは、男でなくてはいけないと思っている。父親が如何に立ち上がるか。日本は、今これが崩れているから国がおかしくなっている。家庭が崩れて、社会が崩れている。子育ての責任は父親が基本、これ位の気持ちを持ってもらいたい。人間性復活運動への期待はここにある。実際にこうして講演会に来て下さるのは女性が多いが、お父さんも一緒に来てもらいたい。これが今の日本において大事な事です。お帰りになりましたら、今日聞いた話を周囲の人達に話して下されば、これが人間性復活運動になって、心豊かに生きることにもなります。

今、社会に出て行かない子供が多いのは、政治にも問題がありますが、自分の子供を社会に出す、社会に役立つ子供、社会人としてお役に立てる子供を育てて行くのが我々の役割です。

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